元青色の海月

思考の出力先

生きるにも死ぬにも金が必要

2020年10月末より2021年の三が日まで基本週7日労働をしていた。理由は大きく別けて2つ有った。

1つ目は緊急事態宣言により職を無くしほぼほぼ働かなかった期間が半年程有り、内2ヶ月がニートであり全く何もしないをしていた。社会の歯車が歯車としての役割を果たせずにいる自責の念による労働意欲の向上。

2つ目はニート故に経験した金欠による何も出来ないことへの苦痛である。

 

これらの理由が折り重なって身体が動く内は馬車馬のように働き死のうっと思い、休日返上で働いた。

だが実際には肉体疲労を起こすだけで、体調を崩す事はなく、精神的にも塞ぎ込むことなく新年を迎えてしまった。1年半の社会人経験、ゲストハウスでの労働せいでたった2ヶ月ごときの過酷には耐えれるようになってしまっていた。残念ながら未だ生きないといけなくなってしまった。

 

生きていくには最低限のお金が必要で、人間らしく生きるには更にお金が必要、そこに自分の娯楽悦楽が加われば無い物ねだり具合にお金が必要となる。

死ぬにも金がかかり、交通事故等の抗えない死以外には多額の費用がかさむ。

自殺などしようものならお金だけでなく、他人への迷惑も加わる。

 

お金が無い人間は自ら死ぬことも選択肢から除外され、徐々に近付く死に寄り添いながら多額な費用がかさむ「人生」を強制選択させられる。

「人生」を歩む時にどんな小さな事でも目標目的が有り意味意義を実感すればマシなのかもしれない。

今の自分には生きる目標も目的も無い。

ただただ他人に迷惑をかけずに死ねるようにお金を稼ぎ生きている。

だがまた緊急事態宣言により職場の営業時間の短縮、これにより稼ぎが通常の半額程になる見込みだ。

死ぬ為に貯めたお金を生きる為に使わないといけない。

こんな皮肉が起こると笑えてくる。

選んだ匣の中の自由

7月末日より仕事を辞め、今日に至るまで無職としてのらりくらりと日々を過ごしている。

7月の終わりから9月の頭まで実家に帰省し全くもってのニート生活を送っていた。帰省して2週間は実家に軟禁状態で過ごした。理由としてはコロナの潜伏期間を懸念したことと、田舎町の世間体を気にしたことである。帰省した翌日に地元のホストクラブにてクラスターが発生した、帰省当初はホストに間違われても致し方ないような風貌をしていた事が拍車を掛けたのだ。自業自得と言えばそれまでだが、いい迷惑を被った。

 

軟禁状態の2週間は本当に何もしなかった。勿論、転職用の履歴書や退職した会社の提出する書類等は作成したが、髪も切れずじまいの状況であったため自発的行動を取ることが出来ずにいた。

2週間の間は毎日、寝て起きて食事をして入浴して寝るだけの生活。自室からほぼほぼ出ない。ただただベッドに横たわりながら垂れ流している映像を眺めているだけだった。余計なことを無駄な時間を過ごした。今考えればあの2週間を有意義に使うことが出来れば多少なりとも良い方向に転がっていたかもしれない。

 

何もしない本当のニート期間が終えた途端にスイッチが入ったかの様に転職活動モードになり、バッサリと髪の毛を切り、しっかりと決めて証明写真を撮影、応募する地元の大手企業、中堅企業のエントリーシートを書き上げ郵送をした。結果から言えば全企業とも不採用となり東京に戻る羽目になってしまったのだが。

 

 

問題は不採用になったことよりも応募直後にバースデーブルーにかかり、約10日間程気が滅入ってしまっていたことだ。

仕事もせず、両親以外とは会話をしないはずなのに急に肌荒れを起こし、扁桃炎を起こし体調も崩した。その時は原因が分からなかった。多分心底自分の誕生日が嫌いなのだと思う。それが根底に有るため何もなくても病んでしまうのだと思う。その成れの果てが全SNSのアプリをアンインストールして自発的に世間から逃げてしまった。そんな状態の自分を見たせいか直接「おめでとう」を言ってきたのは母親1人であった。元々誕生日やクリスマスを祝う風習がない家族の為、祝われなかっただけましではあったが。

そんなこんながあり、立ち直ったのは8月の下旬であった。その頃には不採用の結果が届き始め、東京に戻る段取りをつけ始めるようになった。

 

9月上旬に静岡の企業はほぼほぼ駄目だと思い区切りを付けて東京へと戻った。

そこから1か月色々な企業にアポを取り何社か履歴書や面接を受けたが自分の実力能力不足が露呈し全て落ちてしまった。その結果、自分に何が足りないか、今後に何をすべきかが明確に見えた気がした。期間を決め、すべきことを定めた。そして現状では転職不可能と判断して、最低限アルバイトをお金を稼ぎ生き延びる事を決めた。

 

とりあえず11月から1月まで週7稼働します。

死んでみようと思います。

無理はする物だが「無理」と発してはいけない物

2020年7月末日をもって現在の会社を退社する運びとなった。

2018年12月のクリスマスより働いていた職場だが、この御時世もあり職場が閉館することが決まった。部署移動をし会社に残ると言う選択肢も有ったが、「サービス、接客業から離れたい」と思い退職を決意した。

元々、人と関わる事が嫌い苦手であったが学生時代からのアルバイトが全て接客業であり、自分が保有するスキルを有効活用出来るという理由であり、更に11か月間のイギリス留学経験があり、保持していた一般英会話のスキルを腐らせず、活用しようと思い、ゲストハウスを職場として選んだ。

外国人利用者が多く、去年行われたラグビーワールドカップや今年行われる予定であった東京オリンピックで好景気が訪れると予想していた。

しかし好景気が訪れるどころか、ウイルスが蔓延しパンデミックを起こして職場が失くなると言う事態に見舞われてしまった。

 

この事態は誰も予測出来ない致し方無いことのであった。

元々東京オリンピックが終わった翌年2021年度には退職するつもりでいた。

上述しているように人と関わる事が苦手で、就業中にストレス性胃炎、パニック障害が発生、更に持病であった自律神経失調症が悪化した。

今年の3月末からは病状が酷く、精神科に通う予定であったが、幸か不幸か職場が休業し、ほぼ人と会わずに済む環境が出来たため自宅療養と言う形を取った。

主観的に見ると病状的には大分良くなっていると感じている。人と関わってもちゃんと話すことも出来、笑うことも出来る。回復し調子が良いため病院には行ってない為、完治したかはわからない。だがあと数日もすれば年中行事の如く心は沈んでまた数週間すれば回復するだろう。

話は飛んでしまったが、接客業において当たり前に無理をした為、身体を壊してしまったのだ。

体調を崩しながらもこの様な区切りまで仕事を続けたのは直属の上司への恩が有ったことが大きかった。この職場では上司の下以外では働きたいと思っていた。その上司が退職することを自分等に伝えたのだ。その瞬間に自分も辞める決心をした。他人の意見に流されて決めたように思われるかもしれないが、自分の中の最終決断を下すのに大きな要因であった。それ程まで上司には感謝をしている。その人も一番辛い状況下にあった時に自分を信用して仕事を任せ役職を与えてくれたことがあった。それにより自分の中で無理を「無理」とは発せずにギリギリ死なない程度に働き続けることが出来た。

 

人に頼られることによって自分の働く意味意義を見出していたのかもしれない。

自分の悪い癖なのだが自分の為に努力する事が出来ず、他人の為にしか努力できないこと。これは自分に甘えているのかもしれない。仕事を辞めて新しい職を見つけなければならい。現状で誰かの為になどと言っている余裕はない。ウイルスが原因であれ、自分の弱さが原因であれ、どんな原因であれ仕事を辞めたのだから確りと仕事に就かなければならない。誰にも迷惑を掛けないように人生を歩まないといけない。

無理をして生きようとは思わないし、無理して死に急ごうとも思わない。だが生きるためには無理もしないといけないのかもしれない。

ゴロワーズを吸ったことがあるかい

年々歳を重ねる毎に嫌いな物事が増え、感動する事が減った。

元々知りたがりで知らない事に遭遇した時は直ぐに検索をし知識にし、興味を持ったことには猪突猛進し納得するまで調べあげる。

気に入った事は自分なりの考察をし、事ある毎に考えに耽る。

そんな事を続けるうちに興味と非興味の解離が大きくなり、新しい事を知っても感動しなくなった。

更に気が付くと好きな物は少なくなり、嫌いな物事が多くなっていた。好きであった物も知れば知る程嫌いになってしまうことが多々あり、自分で自分を殺してしまう時がある。

 

興味関心が薄れてしまうと人生から華やかさが失われてしまう。

ここ何年恋愛とは程遠い生活を送っている。

人に対する「好き」と言う感情が年々薄れている気がする。「心がときめく」がわからない。過去に一人の女性を愛することを出来ていたが、振られてから「愛する」ことが出来なくなり、そして徐々に徐々に「好き」と言う感情が迷子になってしまった。いつしか自発的に「好き」を発することがなくなった。かと言って独り身となって5年強誰からか「好き」と言われた事もないため、受動的にも実感してはいないのだが。

これは他人を信用信頼しなくなり、無駄に考え、相手を考察する癖が邪魔をしている様に思われる。

『「好き」は勘違い、「愛」は確信』と言う考えを持っている。

「かもしれない」が積み重なれば「確信」へと変貌を遂げると思っているのだが、「かもしれない」っと思ったとしても、感情に流されず一旦考えてしまう。

考えた挙句「かもしれない」を否定してしまう。

 否定しなかったとしても、相手を知ろうと言う欲求が暴走し、相手の行動言動から知ろうとし、悪い部分ばかり目に入り、自分と折り合いがつかないと感じると徐々に興味が無くなり、最悪の場合嫌いになってしまう。

この上記の様な愚行を行ってしまい、無意識の内に自ずと恋愛から離れてしまっているのである。

 

上記の愚行は恋愛だけでなく、自分の趣味娯楽にも影響を与えている。

歳を追うごとに多くの事を経験し、好き嫌いの判断が明確化してしまい、新しい事に感動をせず、勘違いが始まることなく「拒否」をしてしまう。

新しい事に表面だけで深く触れない為、自分の選択肢、娯楽を捨ててしまっているのである。

人生経験故に感動、悦楽を手に入れる事が出来ず、人生をつまらなくしてしまっている。「無知の知」である為、考える、調べることが当たり前になってしまっている。

無知の知」であるからこそ、一旦何も考えずに行動を取る事が出来れば、今の様なつまらない人生、人間らしくない生活から抜け出せるのかもしれない。

結局、言葉を選び考えながら文字起こしをしている時点で机上の空論になってしまっている、一歩踏み出す事が出来ない小心者なのだ。

 

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天秤上の合理性と嫌悪感

2020年3月末までシーシャ屋さんにて3週間程アルバイトをさせていただいた。

本業の職場が徐々に休業したこともあり、収入が減額が確定していた為に働き始めたが、情勢を危惧され本業の会社から接客業の副業禁止勧告を受け研修期間終了と同時に退職する運びとなった。

接客や技術に関しては至らない部分が多く、迷惑を掛けた挙げ句、恩を返せぬまま辞める運びになったのはとても申し訳無いと思っている。

だが自分の経験として、ある程度の基本的技術を身に付けることが出来た為、良い時間を過ごす事が出来たと思っている。

 

シーシャとの出会いは19歳のイギリスのボーンマスへ2か月間の短期留学時である。

語学学校の同じクラスのスイス人が吸っていた物を少しだけ吸わせて貰った。

どの店で吸ったか、何のフレーバーかは憶えていない、特別美味しい物とも思わなかった。

そこから4年の月日が流れ、イギリスのブライトンに約1年間の語学留学をした。

この留学からシーシャをコンスタントに吸うようになった。

1回目の留学時と異なっていたことはシーシャがイギリスではマイノリティからマジョリティへと変わっていたことである。

シーシャカフェで吸う物からパブでも吸える物になっていた。

語学学校の授業が終わり、学校の友人5,6人でパブへ飲みに行き、 1本のシーシャを回しながら吸う。

喫煙者、非喫煙者関係なく吸う事の出来る、一種のコミュニケーションツールとなっていた。

何度か吸う内にヨルダン人の友人に勧められた「Al Amasi」と言うブランド。このブランドのフレーバーが気に入った。

 

帰国後、シーシャを吸うことはなくなっていたが、約1年が経過した時に通っていたコンカフェが系列でシーシャバーを出すことを聞き、興味本位で行くことにした。

当時の自分の中で日本のシーシャ―バーの在り方が苦手であった。

苦手と言うより自分の知っているシーシャバーの在り方が違っていた。

日本のシーシャバーはシーシャシェアが最大2名までしか出来ず、大人数でシェアすることが出来ず、個人で愉しむであった。上記で述べた様に自分の中のシーシャはコミュニケーションツールとしての一種であった為、一人で吸う物ではないと思っていた。

更に日本におけるシーシャ界隈の在り方が嫌いであった。

マイノリティの物をマジョリティにしようと言う動きがあるのに、マイノリティを尊重するという風潮があった。

シーシャ界隈だけではなく、日本のサブカル、アングラ、一般認知度が低い物全てに言える事だが、マイノリティ故のプライドを持っていて、形は多種多様どうであれ新たに興味を持った人に対する壁を作る節がる。それがいけ好かず、嫌いである。

だが何度か行くとその店の考え方や技術において納得する所も増え、違う店にも行く様になった。

シーシャ初心者なりに行く店に気に入るポイントが有り、その店の雰囲気もそうだが、メインで働いている人の「信念」と「技術」の二つが大きな要因である。

この二つが有るところは自然と雰囲気も気に入り、自分の中で居やすくなるのである。

そのおかげか、シーシャをコミュニケーションツールの一つから自分の世界で愉しむものへと変換する事が出来た。

 

シーシャを日本で常煙するようになり、約2年が経った頃に副業としてシーシャ屋でアルバイトをするようになった。

決めたきっかけとしては、夜勤業が有る、アルコール類を作らない、捨てられる趣味であることだった。

好きな物を職とする時に苦なことが有っても仕事して割り切り、嫌いになっても良い物を前提に考えている。

過去に少しの期間だけ音楽業界の裏方に就いていた時に好きだった事が苦になり一旦触れなくなってしまったことが有り、それが若干のトラウマとなり、「好きなものを嫌いになりたくない」と言う思いからこの思考に至った。

シーシャを嫌いになる覚悟でいた。一つの趣味を失う覚悟ていた。

しかし、嫌う前に辞める運びとなった。基本的技術のみを習得した状態で、半人前の状態で辞めてしまった。

 

不完全燃焼で終えてしまったことにより、妙な愛着がいてしまった。

身に着けて技術を捨てたくないという思いと、職場の休業、外出自粛の期間とが相まって、自宅シーシャを始める事にした。

木乃伊取りが木乃伊になる」とはよく言ったもので、始めてからは1日1~3本のシーシャをほぼ毎日作り、店で習った作り方とは違う作り方を試したりしている。

挙句、シーシャ屋で稼いだ賃金はほぼ家シーシャの機材や環境作りに使ってしまった。

何の為に稼いだのか本末転倒である。元来のヲタク気質故に起こってしまった事態である。

この熱が何時冷めてしまうかは分からない。休業が終わり、仕事が再開し、自宅シーシャに時間が取れなくなってしまった時にやらなくなってしまうこともあり得る。

今の仕事を辞めたとして二度と接客業をやらないと決めているのだが、万が一に気が変わり「接客業をやろう」っと思ったならもう一度職としてシーシャ屋を選ぶかもしれない。

そう言った意味では考えの選択肢を増やしてくれた事に感謝している。

未だにシーシャ界隈の雰囲気が嫌いだが、最初の偏見からここまでの変化は時間の経過と環境の変化により視野が広がったことが要因だと思っている。良い意味で歳を取って丸くなったのかもしれない。

 

煙草も酒もギャンブルもやらなくなり、食にすら興味がなくなってしまった今、嗜好品として手元に留めておけるか否かが重要なのかもしれない。

ギロチンの足音が聞こえる

職場の休業が1ヶ月延長されることが決定された。

仕事が全くない時間を4月から3カ月弱の間過ごす事になる。

1年の4分の1何も出来ない、どうしようも出来ないという事態に直面している。

この期間のお陰で不幸中の幸いと言うべきか身体的精神的に徐々に回復して来ている。

この期間で苦痛から解放され、更に持て余す位に時間を手にした事により真面な思考を持って自分自身について客観的に捉え主観的に考察を行った。

一杯一杯の状況下で興味の矛先を向けていた事柄に対しての多くの関心を失っていることに気が付いた。

 

1つ目はファッションへの関心

自分に自信が無いから少しでも気に入った良い物を身に着けて自分の外見の価値を上げようとした。顔もスタイルも内面も悪い為、それを隠そうとするかのように服や装飾品にお金を使っていた。外身を綺麗に着飾っても中身は変わるはずがないただの「豚に真珠」状態であった。

この1カ月強の間、一度もインターネットで好きなブランドのHP及びショッピングサイトのページ閲覧を行っていない。

「購入する余裕がない」と片付けてしまったらそこでお話終了だが、一番の心情として「ダサくなければそれで良い」と思うようになった。

勿論、最低限の容姿配慮はするが、無理して自分を良く見せようと思わなくなった。

そればかりか、服、装飾品に対する関心が無くなったのだ。

この服が可愛い、格好良い等の感想、着てみたいという欲望が影を潜めたのだ。

よくよく考えると上京までファッションのFの字も知らなかった人間が、人口過密するコンクリートジャングルに放り込まれ、田舎者と小心者が相俟った自意識過剰により「どうにか都会色に染まって人混みの一部として紛れて目立たないようにしよう」という考えを持ち、どうにか変わろうとしていた。これが無意識のストレスになっていたのである。

 

2つ目は食への好奇心

休業期間中に不健康な食事を止める事と減量を行う為に食事制限と食事規則を自分に課した。

この二項を行うことにより体内時計のリセット及び調整と減量に成功した。

基本的にほぼ毎日同じ時間帯に同じ様な物を食べ続けるだけであるが、これにより自炊率を上げ、ファストフードやジャンクフード等の摂取を防ぐこと兼ね合いも込めていた。

自分で作る料理を美味しいと思ったことがないが、自分が食べれない味付けをすることはないのである種安定した供給をする事が出来た。

元々嫌いな物が多く、好きな物が少ない、気に入った物を飽きるまで半永久的に食べ続ける偏食家であったため毎日同じものを食べ続けることは苦どころか楽であった。

この様な食生活を当たり前にして過ごした結果、「急に〇〇が食べたくてどうしようない」っと言う様な衝動的食欲が湧きにくくなった。

ただ身体は正直な物で日常で摂取しないが身体に必要な栄養素を持つ食材を欲することがある。その場合は致し方なく非日常として摂取している。

体重が落ちた為、好きだったお酒が飲めなくなった。

元々下戸体質でほぼほぼ飲めなかったのだが、味が好きな物もあり4年という長い歳月をかけてある程度飲めるようにしたのだが、この1年間で体調を崩し飲めない期間が続いた。そして減量し胃が小さく体積が少なくなった身体はアルコールを入れると蕁麻疹を発生させ拒絶するようになった。

身体が拒否反応を示す物を摂る事は止めたら自ずとお酒への興味が無くなった。

この1カ月で食に対する好奇心と好きな物を失ったのである。

 

 

3つ目は他人との関わり

休業期間に 引き籠りと出不精を更に拗らせたしまった。

それにより最低限、不必要な他人との関りを取る事を自然としなくなった。

休業以前は人と関わる事が苦でしかたなく、ストレスとなっていたが、接客業の為無理して色々な人と関わるようにしてどうにか克服しようとしていた。

その結果何度か体調を崩してしまっていた。

心身が健康に成るに連れて無理をして人と関わることの重要性の無さに気付き、心を許す人達とさえ関わっていれば幸せなどと気が付いた。

そして心身が健康の状態で他人と関わった時に「苦」ではないと言う事を実感した。

無理矢理に慣れる必要はなかった。人に心を開くのに途方もない時間が必要な自分が無理をするとただただ壊れていくだけだったと言う事実。

だから心身の健康を保つために無理な関りを避けることを決心した。

接客業を生業とする人間の発想ではない。

 

大きくこの3つが自分の中から消えた。

健康にはなったが人間らしさが失われた気がする。

生きる為の活力がなく、必死に生きようと思わず「死ぬときは死ぬ」がモットーになってしまった。

危機的状況に面しているはずなのに何の焦りもなく、平常に過ごしてしまっている。

健康になったはずなのに「死」と言う物が近づいて来ている気がする。

 

A day on the planet

職場が休業してから約1ヶ月が経過した。

この1ヶ月間で自分の身体的心身的変化が見られた。

大学卒業後サービス業に就いた為、ほぼほぼ毎日他人と会話していた。

その習慣化したルーティンがパッタリっと途絶え、他人と会話すること時間が全く無くなったのだ。

仕事の関係上不規則な睡眠起床時間を繰り返していた生活から1日の行動を計画的に組み立てた規則性のある生活へと変えた。

この2つが自分のあるべき形に戻したとも言える。

 

まず、最低限の会話しかしなくなったおかげで対人ストレスが無くなった。

3月末はこのストレスのピークに達しており、職場の同僚や当時働いていた副業の上司から独り言を発してると指摘をされた。この独り言は無意識で発せられており、自分が何を発したかを覚えておらず、他人指摘をされなければ気付ない物であった。

現状でこの症状が無くなったかはわからない、人と合っていないから指摘されること無いし、元々無意識の症状の為自分では把握できない。

だが、人とのコミュニケーションを取ることが前ほど苦にならなくなった。と言うより楽しく感じるようになった。

この間電話以外で他人と会話する機会を設けた。その時に自然と笑って会話していた自分がいた。以前なら全てぶっきらぼうに無表情で淡々と受け答えするだけであった自分が心を開いていない相手に対しても自発的に会話していたのだ。人間らしい会話が出来る自分に驚いてしまった。上京する前は「お喋り」っと言われていたし、親友といるときは永遠と話しているので、本来の姿を取り戻しつつあるのかも知れない。

 

次に不規則な生活をしなくなった。

仕事がシフト制の仕事のため、日によって起きる時間、眠る時間、食事を摂る時間等々が異なっていた。それに加えてロングスリーパー体質で何も無い休日は当たり前のごとく12時間以上寝てしまっていた。その為身体がその生活に耐えることが出来ず、体調の良い日が珍しかった。

休業に入ってから基本6時間睡眠、1日1食、毎日1時間の半身浴をを心がけた。

朝の8~9時の間に起床、12~14時の間に食事を摂り、17~18時の間に1時間の半身浴を始める、20~21時にシーシャを作り吸う、25~27時の間に就寝という生活をほぼ毎日続けた。

初めて1週間位が経つと身体がこのタイムスケジュールに慣れ、空いている時間も今まで出来ていなかった趣味の読書やベース演奏に割り振ることが出来るよになり、3月までとは違い時間を有効活用できる有意義な生活を送ることが出来るようになった。

この生活中ストレスが発生しない為か飲酒、喫煙、暴食をしなくなった。

それにより予てから問題となっていたカフェインの過剰摂取もしなくなり、身体の不具合を起こさなくなった。

 

更に住んでいる土地柄も良い方向に影響を与えたのだと思う。

東京とは言え、23区外、駅から少し離れた場所に住んでいる。人が密集していない為、都会の喧騒を感じず、周りに影響されずゆっくりとした時間を過ごせている。

人混みが嫌いで田舎が好きな自分に取って最適な環境だったのだ。

去年の段階で引越しも考えていたが、去年は何度か体調を崩した為、引っ越せず今の家に居続けることになったが、怪我の功名というべきか、そのおかげで健康に成り得る状況を作ることができたのだ。

 

誰も予測できなかった未曾有の事態のおかげで変わり映えのしない日々が送ることが出来る。何もないが故の幸せを実感できる。世界的にこの状況は不幸だが、自分は幸だったのかもしれない。