軽くて重い
僕は言霊信仰を信仰している。
発した言葉には力が宿り現実となると言う夢の様な考え方だ。
「口に出しただけで夢が実現される」そんな簡単に叶うなら誰でも好き勝手に言葉を発するだろう。
だが現実問題、言葉を発しただけでは何も叶わない。ただの夢戯言となってしまう。
それは発した人間がその言葉を軽く考えているからだ。
発する言葉は重く捉えないといけない。
言葉を重く捉えると、その言葉を意識して行動する様になる。
意識した上で行動する事が積み重なり現実味を帯び実現する。
自分の中での言霊信仰の解釈である。
だから僕は言葉を選び、考え、放つ。
自分が発した言葉に責任を持つ。
消えて忘れ去れてしまう様な口約束でも重く受け止める。
自分の中での決めた約束を守れなければ、他人との約束を守る事なんて出来はしない。
言葉は全て自己責任なのである。
僕が口数が少ないと思われるのは上記の考え故なのかもしれない。
決してつまらないから話さないのではない、相手を知らないからこそ相手の発する言葉で探り考えてしまうから黙り込む時間が長い。
一般的に考えたら非社会的思考である。
でもこうしないといけない。
迂闊に軽い言葉を世に出してはいけい、他人が評価する世界だからこそ、少しでも誠実な姿を晒し続けないとならない。
相手が忘れようとも自分は意識する。
それが他人の為、自分の為なのである。
この考えを文字起こしたのもある種の言霊として世界に残して自分の信仰を貫く為、宗教倫理を通す為。
五分後仮説
「常連」と言う言葉が嫌いです。
厳密には「常連」「お得意様」になることが嫌いです。
人に顔を覚えられ、自分が購入するもの、注文するものを覚えられてしまい「いつものですか?」っと伺われるのがしんどい。
伺われると違う物を咄嗟に注文してしまう。
伺われた後ある程度の期間その店に行かなくなってしまう。
社会人にそぐわない格好をし、偏食家気質をを持つ自分からすると直ぐに覚えられてしまうことは当然のことなのだが。
この気質と性格が相まってここ数年で一人で外食することが異様に減った。
ラーメン屋でアルバイトしていた時は時間があるようなら色々なラーメン屋を巡っていたし。
上京したての頃は住んでる地区の自分が美味しいと思う店を知りたく巡り歩いた。
昔は人に覚えられる恐怖、嗜好を認知される恐怖を抱いていないなかった為、好奇心が故に自由であった。
現在、サービス業に就き、肩書を持っているのだが、本質的に向いていない。
サービス業は人の顔を覚え、相手の手間を省き行動するのが当たり前である。
「相手を覚えて会話をし居心地の良い空間を作る」、「相手の喜ぶ事を先回りして行う」
全て意味を理解しているが、自分はネジ曲がっている性格故に上記の事をされたくないし、放って置いて欲しい。最低限の業務的対応をされる方が嬉しい。
故に一般的に嬉しいと思うこともわかっているのだが、自分が嫌なことの為行動に出来ない。
人と関わるのが苦手で社会不適合な性格の癖にスキルは接客の技術しか持ち合わせていない。
板挟みの状態である。
仕事以前に人に向かない生き損ないなのである。
自己の嫌悪と否定で生きている
僕は自分が嫌いだ。
外見も中身も全てにおいて自分が嫌いだ。
何をしても自分を肯定することが出来ない。
いくら勉強しようとも 、いくら着飾ろうとも、どんな努力をしたとしても自分は頭が悪く醜いまま何も変わらない。
きっと自分に対し、ある種の完璧主義を強いて、無い物ねだりを続けているのだと思う。
他人の為に生きていると言ったら烏滸がましいが、少なくとも自分の為には生きていない。
僕は自分の為に頑張る事が出来ない。
僕は凡人である、いや凡人以下の人間かもしれない。
非特別な存在はこの世界の歯車の一部として代用が利く部品の一つとして世界を回している。
特別を特別とさせ、1番を1番とさせるのが非特別の存在である。
例外に漏れず僕も非特別な存在である。
現在の職場環境において、自分はどの分野においても1番と誇れる物がない。だからこそ自分より優れている人達が1番である為に、何も出来ない自分は泥水を啜ろうが汚名を被ろうがその人達が動きやすい環境を作ることが僕が出来る唯一の事。これでしか回りの人に職場に還元することが出来ないから致し方無いのである。
日常生活においても、自分の為にお金を使うことが過去と比べ大分減った。自分の手元に残るお金の使い方をしなくなった。
それを如実に表しているのがコンカフェである。
僕は人と話すのが苦手であり、コンカフェに行った後は毎回尋常じゃなく疲れてしまう。会話して楽しいと思うことは基本的に無い。
他人からすれば時間とお金の無駄遣いだと思われてしまうが、僕はお金を使う場所としてコンカフェを利用している。クソみたいな自分に使うより、推しや好みの顔面に使う方が有意義に感じているからである。
自分の外見においても髪を伸ばし結い束ね簪を挿し、眉と髭を整え剃る。
こんな外見なのは成りたい外見に成れず、近づこうとすれば身体に合わず醜くなってしまう。なら嫌いだとしても少しはまともな成れる外見に成るしかなくなってしまった。
他人からの評価、肯定を求めて行っているのではなく、僕の中での自己満足である。
成れる自分に自らなろうとし出来上がった自分を肯定する。これが唯一今の自分を肯定出来る所である。肯定しているが嫌いなのは変わらない。自分の中に多々ある矛盾の一つである。
他人が自分の為に何かをしてくれると言う行為が非常に苦手で嫌いである。
自分の為に時間やお金等を使うことは、その人の人生の無駄遣いになってしまう。
慈悲であろうと人の時間と労力を無駄にしてると考えると苦痛で耐えられない。
僕に何かをするのならば、もっと他の有意義な物事に使え、そしてその人自身を豊かにする事が出来るのに思っている。
嫌いな人に何もしてあげたくない様に、嫌いな自分には何もしない。だからこそ僕が感謝している人達に対して尽くしたい。
エゴであるがそれが自分が死なずに生きている意味意義だと勝手に解釈している。
自己嫌悪が無ければ勉強もまともにせず、知識を得ようとせず、何の努力もしないまま今以上のクズであったはず。
自己否定をし続けているから死に損ないで生き続け、少しは世に還元出来ているはず。
故に自分を嫌悪し否定し続け、少なからずの価値を生み出して生きていく。
壊れたら直ぐに代用のできる部品として。
思想と表現の自由
自分は元々ブログ等で文字を綴る事は好きだった。年齢を重ねるに連れて自分が嫌いになった為か自分を他人に知られることが嫌いになった。嫌いな自分の過去を消すかの様にインターネット上に綴った文章を削除した。
音楽をやっていたため、15歳辺りから歌詞や詩を書いていた。色々な経験をして自分の中に思想が芽生えた。この瞬間から浮かんだ言葉を文字に起こす事を止め、過去に作った作品を抹消した。
どんな思想を持ったとしても表現の自由があり、表現することが許されている。
自分は良くも悪くも独自的宗教価値観を持っている。腐っても4年間歴史学に片足を着け、11ヶ月間の海外生活で学び見た結果生まれてしまった。
この思想を表現し誰かに共感して欲しいとは全く思っていない。そして自分がどんな人間なのか理解して欲しいわけでもない。
ただ不特定多数が閲覧できる公の場で自己嫌悪が強く、非一般的思想を持ってしまった自分の文字にしたいと思ってしまった故に始めた。
ただの思考と行動の矛盾を体現するブログ。