元青色の海月

思考の出力先

張りぼてピーマン

最近、薄々と勘付いて来たのですが、僕は人間としての何かが決定的に足りない気がしているのです。

自称アスペルガーサイコパスなんて言うのは烏滸がましいので、そうとは思っていないのですが、何かの欠陥が否めなくなってきているのです。

 

人間が人間らしくあるために必要なのが三大欲求と108の煩悩だと思っている。

108の煩悩に関しては億劫で数えていないが、成長意欲や貪欲心があるから多分人並みに持っているはずだ。

しかし三大欲求に全てに関して年々衰えている気がする。と言うより元から人並み以下であったのかもしれない。

自分が生きていた中で全て人並みにあると思っていた。

しかし去年の誕生日付近に体調悪化してから自分は三大欲求を面倒さいで片付けていることに気が付いた。

勿論、これは精神的に滅入っていたこともあり全ての物事に対する興味が失われていた事も関してたのだが。

 

心身共に健康になった今ですら

お腹が空いても作るのが面倒くさい、食べるのが面倒くさいから食事を摂らなかったり、

夜更かしして寝て通常通りの時間に目が覚めてしまっても、寝るのが勿体無く感じ眠いまま行動し、夜更かしをして早起きを繰り返したり、

自慰行為に至ろうとしても動画の途中で飽きたり、検索中に飽きたりして自慰に至る前に終わってしまったりしている。

普通に考えて20代半男性としては異常行動なのである。

 

欲求だけではなく、感情における「好き」が如実に欠落していると思う。

心理テスト等の結果に置いても「愛情のない恋愛」と必ずと言って良い程診断される。

確かに他人の感情に共感できず、自分本意の感情で動く為、他人に興味はないが他人の動きや言動から予測して「相手が返答するだろうから、こう言う発言をする」と言うパターンで動いている。

勿論、例外も有って心を開いている人間に対しては予測行動を取らない。

 

更に他人が自分を肯定することをほぼほぼ100%否定する癖がある。

その癖のせいで他人からの「褒め言葉」「愛情」をお世辞、社交辞令、嘘としか捉えられない。

他人の好意を受け入れられない為か、元から他人に興味が無い為かはわかんないが自分からの好意を向ける事がない。

稀に人に対して興味を持つ場合もあるが、それは好意と言うより関心と娯楽として興味に近く、自分の利己でしかないのである。

 

 

元カノに「途中からしか愛を感じなかった」っと言われたことがある。

付き合ったとしても長い期間を共有しなければ彼女にすら無意識で心を閉ざしていたのである。

心を開いたのは相手が僕を愛してくれたからで、その愛を還元しようとしていたから愛しているように見えたのかもしれない。

故に僕はその彼女にフラれてしまった。

空っぽの愛情が見透かされたからであろう。

「好き」と言う愛情に触れていたはずなのに、「好き」がわからない。

わからないが故にお金を貢ぐことでしか愛情表現をすることが出来ないし、貢ぐことしかしてこなかった。

 

慈悲の心が欠如しているから無慈悲な行動言動を取って他人を傷付けてしまっている。

だから自分の回りには人がいないし、集まらないのである。

空っぽの形だけの思いやりしかしないから他人から距離を置かれる。

ただそれでも物好きな人がたまに寄ってくる。その人たちだけでも手放さないようとは思っている。その人たちには還元をしないければいけないのだ。

 

 

自分について考えたり、聞いたりして、見つめ直そう変わろうと思うが、他人と関わるストレスを思うと自分が楽な方楽な方へと動いてしまう。

きっと何時まで経っても僕は自分の視野の狭い窓の中でスカスカな人生を歩み続けるのであろう。

 

思考と行動がまさに矛盾しているのである。

過去帰りは幸せか否か。

職場が休業して早10日が経過しました。

基本的に不要不急の外出自主規制を行い、片手で数える程度しか外の空気を吸っていない現状であり、240時間の内約5時間程度しか部屋と違う景色しか見ていない。

 

この様な生活をして1週間がたった辺りで気が付いた事が1つある。

それは自分の体調がとても調子が良いのである。

多分、上京して6年の内で一番体調が良いのではないのだろうか?

それほどまでに心と身体が軽いのである。

 

まず自分は対人コミュニケーションが大の苦手である。

ある程度仲の良い人とでも居るといつの間にか疲れてしまう。

気付かない内にそれがストレスとなり蓄積してしまう。

自分の趣味として「ライブに行く」という物があった。

これはバンドの演奏を見るのが好き、アイドルのパフォーマンスを見るのが好き、フロアで暴れるなりふざける事が好き。と言うものであった。

確かに身体を動かしストレスを発散するという目的があり、ステージを見て自分が出来ないことを出来ている人達に対しての尊敬が有った。

しかしライブ後に会話をする時には自分は壁を作ってしまい、無意識に話すことを考えながら会話をするためそれが苦になる瞬間が多々あった。

 

学校において最初の2年間及び1年間の留学中は英語の学校で有ったため、第2言語で会話をして当たり前の環境であり、元々英語が嫌いな自分は苦難の時間を過ごした。

大学編入後は歴史学を専攻していたが、メインとなる専攻のゼミは自分の書いた論文について討論を行うと言うものであり、製作期間は悠々自適に取り掛かれていたのだが、最年長及び外の世界を知っていると言う理由でゼミ長にされ、まとめ役担ってしまい、他の学生よりコミュニケーションを取らないといけない状況であった。

 

アルバイトにおいても基本が接客業、就職先もサービス業で有ったため、お金のためとは言え自分を殺し日々身を削りながらの生活を過ごした。

挙げ句、根が真面目で病欠もしないし、一通りこなせてしまうため、バイトリーダー、従業員代表と言う役職まで付けられてしまった。

 

更に元来人混みが苦手、都会も好きではない事が相まって、通学通勤の電車や何処に行っても人が居る状況が苦で仕方なかった。

 

これらの要素が全て重なり、毎年体調を崩し続けていた。

 

しかし、良くか悪くか職場の休業、外出自粛の世の中の流れになり、社員会議と親友と会話以外で他人と会話することが無くなり、外に出ず永遠と自分の世界に引きこもる事が出来るようになった。

そうなると徐々に体調は良好となり、ビックリする位にポジティブになり始めたのである。

そのせいか自分のSNSの発言が自分自身がウザイと思うと物に変わっていた。

明るく人嫌いではなかったアホの時代の自分に戻ってきている。

 

事態が収束し普通の生活に戻ってしまうことが自分の中での恐怖に成り始めている。

もしかすると前のような時間とお金の使い方をしなくなる様な気がしている。

最低限の人と関わるだけの生活が自分にとっての幸せなのかもしれない。

 

こうつらつらと書いて気付いたのだが、これ以上自分に友達が出来ないどころか、このままだと一生彼女が出来ず、結婚も出来ないまま人生を終えてしまう気がする。

自分にとって楽な生活は結果として一生孤独な生活なのかもしれない。

自分の理想と現実が矛盾し反比例していると実感した。

この生活に慣れたら社会のゴミになって終えてしまう。

マグロ、九三七〇夜連続構想

回遊魚の鮪は泳ぎ続けなければ窒息死してしまう。生まれてから死ぬまで泳ぎ続ける。寝る時も休まず永遠と泳ぎ続けている。

獲物を狙う時、強者から逃れる時に生きる術として最高100キロ近くの速度で泳ぐことが可能である。

 

僕はマグロの生活習慣の様な脳内構造を持っている。

永遠と物事を考え続けてしまう。

重要な事柄から他愛ないしょうもない事柄まで内容は千差万別である。

少しでも興味を持ったもは先ずは検索をし調べて知識として蓄える。

もしその時に「理解できない」「わからない」ならば「何故わからないか?」「何故理解できないのか?」を究明する為に調べ考察する。

 

物事を「わからない」ままにすることが出来ないのだ。

自分は頭が悪い、物を知らない、理解力がない。

だからこそ考え続けないといけない。

考え続けなければ人並みにはなれない。

だからと言って興味がない物について考える続ける事は出来ない。考えても覚えられず理解も出来ないからだ。ただでさえ知らないことが多いのにそのタイミングで不必要な事柄に時間を取られ、浪費し無駄にしてしまう。

厳密に言えば無駄ではなくいずれ必要となる知識なのだが、考える優先順位として低い物より優先順位が高いものについて考える方が必要なのだ寿命は有限なのだから。

 

これは仕事や趣味だけでなく対人関係に関与している。

僕は人の気持ちを汲み取ることが出来ない。

自分の感情でしか行動発言が出来ない為、自分とは違う感受性を持っている人の気持ちや行動原理がわからない。

当たり前の事だが人間は多種多様十人十色の存在であるため、基本的に他人の気持ちがわからない。

他人に興味がない事も相まって他人が「わからない」のだ。

 

他人に興味がないが他人の行動には興味があると言う矛盾を保持している。

多分これは自分が生きていく上で、どんな人間とも話せるように他人の行動発言パターンを覚え、細分化し、幾つかのテンプレートを保有し、その場に合った会話を出来るようにするためだと思う。

社会不適合が対人感情が有り様に見せる八方美人なのである。

勿論、例外もあり会話が上手く噛み合わなければ、後に会話を思いだし、「あの時どう発言すれば良かったのか?」等のように反省し考える。

 

出来損ないの僕は思考が一杯一杯になってしまうと対人関係の会話が一切出来なくなってしまう。自分の構内の引き出しが開けず、素っ気ない言葉でしか返答が出来ず、相手を怒らせたり、悲しませたり、傷つけてしまった事がある。

だから考え続けなければいけないのである。

 

一度考える事を止め様と試みたが、何も考えないと何もわからなくなってしまった。

何もわからない焦りと恐怖に押し潰されそうになり思考再開をすることになった。

普通の人なら何も考えないと言う選択肢が取れるのだろう。

だが普通ではない僕はそれが出来ない。

生きてしまった以上最低普通でないと人並みの生活ができない。

もし並み以上の人間になったのならば考える事を止めることを出来るだろうが、永遠と並みになれない僕は息を止めるまで考え続けないといけないだろう。

 

 

生きるために考え続ける、生きるために泳ぎ続けるマグロの様に。

菅田将暉って読めない

基本的に初見で間違えて覚えてしまった事は訂正できず、半永久的に間違いを使い続けてしまう。

良い事例が人の名前だ。

元々、人の顔と名前を一致させるのが苦手で覚えるためには補足情報を入れないと覚えられなかった。

バスケットボールをやっていた時に先輩の顔と名前を一致させる事が出来なくて、背番号とポジション、プレースタイルで覚えていたら親に笑われた。

 

顔は特に曖昧でしか覚えられなくて、友達や推し、それどころか親友や親の顔も具体的に説明しろっと言われても出来る自信がない。

道端で遭遇したとしても顔がぼんやりしているため声を掛けることも出来ないし、逆に声を掛けられるとキョトンとしてまう。

 

どうにかして覚えようとする時に人の格好や癖等を言語化して自分の中であだ名を付けてしまう。

これが原因で人の本当の名前を覚えるのが難しくなってしまう。

最初に述べた間違えて覚えてしまった名前もあだ名と同義なのである。

 

良い具体例として僕は菅田将暉を「すがたまさき」と読んでしまう。

彼に興味がないから仕方無いのかもしれないが顔も「これが菅田将暉だよ」っと言われないと分からないし、多分覚えられない。

僕の中で菅田将暉は一生、顔も分からない「すがたまさき」なのだ。

 

 

損得感情

「自分がこれだけしてあげたから、これだけやって貰える、同じだけの見返りを求めている様に見える」っと言われたことがある。

 

確かに損得勘定で動いているのは事実かもしれない。

ただ僕は自分の見返りを求めて動いているのではなく、受けた恩恵を返すように動いている。

 

誰かに何かを与えることが自発的に出来ない。

誰かに与えて貰った事を返すことしか出来ない。

 

愛情すら誰かに与えることは出来ていない。

「好き」が分からないと言うのもあるが、返す事しか出来ていない。

いや、返すことも出来ていないかもしれない。

 

感情希薄ながらにも自分に向けられている好意は感じ取ることが出来る。

ただ『好きは勘違い』と言う考え方と自己否定ゆえにその好意に対して信用することが出来ない。

「自分なんかの好意は他人が嫌なものかもしれない、迷惑かもしれない。」

「自分を愛してくれる人なんていない。」

深層心理でそう思ってしまう。

だから自分から好意を与えることがある種の恐怖なのである。

故に受ける事でしか返す事が出来ない。

単なる臆病者である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まるで刀、ひらがな、カタカナ

「お前はバカだから人の三倍努力しろ」と親に言われ

「デブ、ブサイク」と同級生に言われ

約12年間過ごした。

この12年の間、何もしなかった。だから何を他人から言われても仕方無い。100%自分が悪い。

これらの言葉は今も尚、自分に突き刺さり続けている。

何の努力もせずに逃げてきたツケが今になって自分に返ってきたのだ。

 

するべき時にしなかったから今苦労をしている。過去に遊んで過ごした無駄な時間が今の自分を苦しめている。

何事にもするべきタイミングと言うものが存在しており、それを逃すとその時に必要な時間よりも多くの時間を要してしまう。

非効率もいいところだ。

 

今、勉強しようとも、痩せようとも、まともな顔になろうとも過程における劣等感が拭えない。

何をしても人より劣っている。自分が出来ることは他の人が出来て当たり前。

自分が得意なことも世間一般からすれば0点。基本がマイナス手数なのであるから致し方無い。

マイナスだからこそ人より真面目でなければならない、人より真剣でなければならない。

ただせさえ生きるのが下手くそなのだから余計に頑張らないと社会にいてはいけない人間なのだ。

 

どんな形であっても人前に立たなければならないなら、普段の自分を殺して人前に立てる自分を演じないとならない。

生まれてしまったからには、生活をしなければならい。

自分は普通に生活を送れる普通の人間ではない、何事も出来ない全てのマイナス人間、所謂社会府適合者なのだ。

社会府適合者を思想と思考で縛り発した言葉で殺してまともな皮を被った生き損ないとしてしか生きる以外ない。

死スル時、出ル者

少なからず25年と言う歳月を歩んできてわけで、否が応でも多々経験を経て来たわけで、分岐点が何回か有ったわけなのだが。

思い返した中での一番自分を変えた出来事が5年前の今日に振られた事だと思う。

振られてなければ英語も話せない、論文も書けない、現在よりマイナスの位置に居ただろう。

 

「怪我の功名」っと言うべきか、自分が組み立てていた人生設計が白紙となり、何するか?何がしたいか?何が出来るか?何が出来ていないか?何が足りないか?等々自問自答する機会が出来た。

18歳から20歳までの約2年間人生の中で性格思考は一番イキっていた、クズだった。

逆に外見だけは過去一番痩せており、一番色白と出来としては完璧であった。

ただ自分がどういう人間なのかを理解出来ていないかった。故に勘違いを犯しクズであったのは言うまでもない。

 

考えの末、編入する大学を変え、卒業までの時間を伸ばし、貯めていた貯金を使い留学をした。

自分が学びたかった歴史を研究し、自分が足りていなかった英語を0から勉強した。

両を学ぶ最中に自分の粗が浮き彫りになった。この溝が自分の在るべき姿、思考を持つキッカケになった。

 

勿論、全てが良い方向に進んだ訳ではなく、悪い方へと転んでしまい大きな陰を生んでしまった。

年々人付き合いが苦手となり、自己嫌悪が加速した。昔持っていた感性を嘘だったかの様に失くした。

悔やんでも現在が変わるわけではないが、永遠と過去の自分の行いを悔やんでいる。大嫌いだ。

 

ただ自分を変えてくれた人にはとても感謝をしている。感謝と同じ位に申し訳ないとも思っている。

 

ただただ過ぎた日々を美化しているだけかもしれないが。